【研究】コットン・クラブ物語り 6 ’33年の春からは、デューク・エリントン楽団がまたコットン・クラブに戻ってきた。ケーラーとアーレンは4月のショウに新曲を書き、ハーマン・スタークはその曲を歌う歌手としてエセル・ウォーターズを雇った。エセルはシカゴでアル・カポネのやっている店に出ていたが、どうも彼女のスターへの歩みはこのところ停滞気味で、ニューヨークへ戻ってきたところだった。
【研究】コットン・クラブ物語り 5 コットン・クラブの whites only という方針は断固としたものだったが、’28年頃からそれが少しずつゆるまってきた。ミュージシャンや歌手、ダンサーなど黒人出演者の知人や家族が入れるようにエリントンらが交渉し、それが許されるようになったからだ。といっても黒人の客は一番うしろのキッチンに近い席に案内されるのが常だったが。
【研究】コットン・クラブ物語り 4 さてエリントン・バンドは映画の仕事を終え、’30年にコットン・クラブに戻り、キャロウェイ・バンドはプランテイション・クラブに移った。プランテイション・クラブはブロードウェイで成功したクラブだったが、コットン・クラブの成功に挑戦するようにその近隣のダウンタウンよりに支店を開いたのだ。
【研究】コットン・クラブ物語り 3 急死したハーディングのあとに大統領になったのは、カルヴィン・クーリッジ Calvin Coolidge だった。彼は昼寝が得意で、執務室で昼寝ばかりしていた。のちに無能な大統領の典型と言われたクーリッジだが、’70年代の終りころになると、ヴェトナム戦争の苦い経験からかアメリカでは、忙しく勤いて戦争、失業、経済赤字を招来することになったケネディ、ジョンソン、ニクソンらの大統領の評価はがた落ちし、クーリッジのようになにもしないでボーッとしていた大統領の評価が大きく高まったりした。
【研究】コットン・クラブ物語り 2 ’23年秋、コットン・クラブ最初のショウが組まれ、マクヒューは[I Can’t Believe That You’re in Love with Me]、[When My Sugar Walks Down the Street]などの曲を書いている。ショウも評判がよく、店の雰囲気はもっと評判がよかった。
【研究】コットン・クラブ物語り 10 ’39年秋のコットン・クラブのショウは二つ用意された。一つは、【ミカド】が11月初めに全国公演にでかけることになっていたので、ビル・ロビンソンがそれまではニューヨークにいるということを利用して、彼を中心に組み立てられた。バンドはルイ・アームストロングのグループが新たに雇われた。
【研究】コットン・クラブ物語り 1 1910年のこと、黒人ボクサーでその二年前に初のヘヴィ級のチャンピオンになったジャック・ジョンソン Jack Johnson は、白人ボクサーのジム・ジェフリィズ Jim Jeffries に勝ってタイトルを防衛した。ジェフリィズも1899年から六年間チャンピオンの座にあったが、’05年に引退していた。
【研究】コックニー Cockney 映画『My Fair Lady』ではオードリー・ヘプバーン扮するイライザがロンドンの下町訛りコックニー Cockney を盛んに喋べる。「a がちゃんと発音できるようになるまでは、今日は昼飯も晩飯もチョコレイトも抜きだ」とヒギンズに徹底的にしぼられて、頭にきたイライザは次のように言う。
【研究】コウル・ポーター 1 コール・ポーターがこの曲をつくった経緯については色いろなことが言われてきている。一説には彼がフランス外人部隊にいてアルジェリアでつくったとかいうし、またオランダ領東インド、アロール島のカラバハヒ Kalabahai (または Kalabahi)という小村の原住民のリズムからインスピレイションを得てつくったという説、ポーターがニューヨークのウォルドーフ・アストリアに泊まっていた(事実上住んでいた)とき当時売れていたラテン・バンドのザヴィア・クガトも同じく泊まっていて、彼との会合から生れたという説もある。