【研究】ポップ・ソング史を画した曲([Fascinating Rhythm]について) [Fascinating Rhythm]の歌詞がよく書けているのかどうかという点では意見が分れるにしても、このメロディがとても斬新なものだったという点では衆目の一致するところだったと思う。これは非常にリズミカルな曲だったから、アイラを弁護することになるが、私はこの曲に歌詞をつけるのは至難の技だったろうと思わずにはいられない。
【研究】ニューオルリンズとジャズの楽器について ニューオルリンズは、1698年から探検をはじめていたフランス軍のアイバーヴィルとビアンヴィルの兄弟が率いる遠征部隊が、1718年に築いたものだという。北にはポンチャートレイン Pontchartrain 湖があり、街のなかにはミスィスィッピィ川がはしり、軍事的には重要な場所と考えられたが、土地が海水位と同じかそれ以下と低くつねに水害に悩まされてきた。
【研究】詩から歌詞への変貌 ジェロウム・カーンが英国滞在中に知り合い、彼の英国で上演したショウの多くの作詞を担当したP・G・ウドハウス P. G. Wodehouse (1881-’75)は英国人で、小説家、詩人でもあり、雑誌に寄稿していたコラムニストでもあった。
【研究】ケイク・ウォーク Cakewalk サヴォイのフロアの北東の隅は、プロや踊りの専門家だけが集まる場所になっていて、Cat’s corner と呼ばれていた。Cat はジャズ・ミュージシャンのことをさすミュージシャン用語だが、必ずしもジャズ・ミュージシャンだけでなくなにかの〈通〉という意味がこめられていた。
【研究】悩ましい恋の歌の意味論的、言語病理学的解釈!? アイラ・ガーシュウィンは著書《Lyrics on Several Occasions》で、意味論 semantics の大家S・I・ハヤカワが’55年冬季の専門季刊誌に載せた論文について書いている。ハヤカワはカナダ生れの日系人で、アメリカの大学で言語学などを教え、’68年から’72年までサンフランスィスコ州立大学の学長も務めた人で、学生運動がおこるといち早く警官隊を導入し、タカ派ぶりを発揮して話題をまいた。
【研究】コットン・クラブ物語り 10 ’39年秋のコットン・クラブのショウは二つ用意された。一つは、【ミカド】が11月初めに全国公演にでかけることになっていたので、ビル・ロビンソンがそれまではニューヨークにいるということを利用して、彼を中心に組み立てられた。バンドはルイ・アームストロングのグループが新たに雇われた。
【研究】コットン・クラブ物語り 9 ’38年春のショウにはまたデューク・エリントン楽団が戻ってきた。エリントンはライフ誌で〝アメリカの20人の傑出した黒人〞の一人に選ばれたところだったし、しかも今度はショウの全スコアを複数の作詞家とともに彼が書くことになったので、彼の意気込みはいつもとは違っていた。
【研究】コットン・クラブ物語り 8 ダウンタウンに移転したコットン・クラブは、ブロードウェイと48番街の交わるところにあるビルの一番上の広い部屋を借りた。ブロードウェイの劇場地区は〝不夜城〞というような意味で The Great White Way と俗に言われていたが、そのビルはしかもその中心に位置していた。
【研究】ジャイヴと黒人口承文化 jive の意味は〈お喋り〉と書いたが、実はほかにもたくさんの意味がある。元もとは〈だます、馬鹿にする、からかう〉という意味だが、黒人のあいだから生れてきた言葉で、語源ははっきりしていない。ギネス版《ジャズ・コンパニオン》によると、最初にプリントされたのは’28年のルイ・アームストロングのレコードの[Don’t Jive Me]と[Don’t Give Me That Jive]という曲名だという。