【研究】ボサノヴァについて ボサノヴァの定義は非常に難しい。ボサノヴァはブラジルの音楽家たちがアメリカの巨大市場を目的に、サンバをアメリカ人にも判るように易しく単純にしたものだとか、反対にアメリカ人が自分たち向けにサンバをまるでインスタント食品のように気の抜けたものに作り上げたのがボサノヴァだとか、従ってボサノヴァとはブラジルにはなくアメリカの音楽、アメリカのブラジル風音楽だ、という極端な説もある。
[Wave (Vou Te Contar)]Wave (Vou Te Contar) アントニオ・カルロス・ジョビンの書いたボサノヴァ曲で、彼の数かずの有名なボサノヴァ曲のなかでは比較的新しく、アメリカで録音され’67年に発売された。そして大抵はポルトガル語の詩に対して誰かアメリカの作詞家が英語の詩をつけるのが慣例だが、これは彼自身が英語の詩をつけている。
[So Danço Samba]So Danço Samba ジョビン、モライスのコンビが作曲し、G・キャラブレーゼが作詞したとあるが、事実上はモライス作詞、ジョビン作曲の’62年のボサノヴァ曲で、英詩はノーマン・ギンベルがつけている。
[Recado Bossa Nova (The Gift)]Recado Bossa Nova (The Gift) もとはブラジル人の手になる曲だが、この二人の人物はブラジルでは知られていないようで、どうやらアメリカ在住のブラジル人らしい。もちろんこの歌にはブラジル語の歌詞がついていて、ブラジルでもヒットした。
[Only Trust Your Heart]Only Trust Your Heart この曲は1964年にアストラド・ジルベルトが歌って有名になった。彼女がボサノヴァで歌ったせいか、これはほとんどボサノヴァで歌われるようだ。曲はトランペトとアルトサクスをこなすジャズ畑の大御所ベニー・カーターが書いていて、歌詞はサミー・カーンによっている。カーンは’57年に Nicholas Brodszky の曲に同名の歌詞を書いていて、それはディーン・マーティンが歌って出されているが大きなヒットとはならなかった。
[One Note Samba]One Note Samba 1961年につくられたアントニオ・カルロス・ジョビンのボサノヴァ曲の代表で、知らない人はいないほど有名になった。彼は小さいときから釣りをしながら、ギターの弾き語りをして遊んでいたが、その仲間の一人がニュートン・メンドンサだった。
[No More Blues (Chega de Saudade)]No More Blues (Chega de Saudade) ヴィニシウス・ジ・モライスとアントニオ・カルロス・ジョビンのコンビが’58年に書いた曲で、有名になってきたのはずっとあとだが’63年に同じ二人によって書かれた[Garota de Ipanema イパネマの娘]などよりも五年も前に書かれている。
[Manhã de Carnaval (La Chanson D’Orphée)]Manhã de Carnaval (La Chanson D’Orphée) この曲は先頃亡くなったブラジルのギタリスト、ルイス・ボンファの作品で、1957年の仏葡合作の映画『黒いオルフェ Orfeu Negro』に使われたものだ。
[How Insensitive]How Insensitive ヴィニシウス・ジ・モライス作詞、アントニオ・カルロス・ジョビン作曲の’63年の曲で、英詩はいつものようにノーマン・ギンベルがつけている。英詩がつけられたのは’64年のようだ。