【研究】コットン・クラブ物語り 5 コットン・クラブの whites only という方針は断固としたものだったが、’28年頃からそれが少しずつゆるまってきた。ミュージシャンや歌手、ダンサーなど黒人出演者の知人や家族が入れるようにエリントンらが交渉し、それが許されるようになったからだ。といっても黒人の客は一番うしろのキッチンに近い席に案内されるのが常だったが。
【研究】コットン・クラブ物語り 4 さてエリントン・バンドは映画の仕事を終え、’30年にコットン・クラブに戻り、キャロウェイ・バンドはプランテイション・クラブに移った。プランテイション・クラブはブロードウェイで成功したクラブだったが、コットン・クラブの成功に挑戦するようにその近隣のダウンタウンよりに支店を開いたのだ。
【研究】コットン・クラブ物語り 3 急死したハーディングのあとに大統領になったのは、カルヴィン・クーリッジ Calvin Coolidge だった。彼は昼寝が得意で、執務室で昼寝ばかりしていた。のちに無能な大統領の典型と言われたクーリッジだが、’70年代の終りころになると、ヴェトナム戦争の苦い経験からかアメリカでは、忙しく勤いて戦争、失業、経済赤字を招来することになったケネディ、ジョンソン、ニクソンらの大統領の評価はがた落ちし、クーリッジのようになにもしないでボーッとしていた大統領の評価が大きく高まったりした。
【研究】コットン・クラブ物語り 2 ’23年秋、コットン・クラブ最初のショウが組まれ、マクヒューは[I Can’t Believe That You’re in Love with Me]、[When My Sugar Walks Down the Street]などの曲を書いている。ショウも評判がよく、店の雰囲気はもっと評判がよかった。
【研究】コットン・クラブ物語り 1 1910年のこと、黒人ボクサーでその二年前に初のヘヴィ級のチャンピオンになったジャック・ジョンソン Jack Johnson は、白人ボクサーのジム・ジェフリィズ Jim Jeffries に勝ってタイトルを防衛した。ジェフリィズも1899年から六年間チャンピオンの座にあったが、’05年に引退していた。
【研究】アニタ・オデイの[A Night in Tunisia] アニタ・オデイのLP《Anita O’Day Sings the Winners》には異なる歌詞の[A Night in Tunisia]が入ってる。これには括弧して Love was just an interlude という副題のようなものがついていて、しかもこの歌詞のなかには A night in Tunisia という言葉がどこにも出てこないのだ。
[You Go to My Head]You Go to My Head これはガレスピとクーツが書いて’38年に出版された曲で、映画、ミュージカルとは関係がない。実際にはその二年前に書きあげていたのだが、どこの楽譜出版社にも断られ、[Till We Meet Again]を出した会社レミックがとうとうこれを引き受けて出版した。
[Who Can I Turn To?]Who Can I Turn To? ブリッカスとニューリーのコンビが’64年につくり、翌年のミュージカル【The Roar of the Greasepaint─The Smell of the Crowd ドーランの叫び─観客の匂い】に挿入され、それに出演もしたニューリーが歌った。
[West End Blues]West End Blues この曲は、ピアニストで作曲家として多く曲を書いているクラレンス・ウィリアムズが作詞にまわり、アメリカジャズ界の草分け的存在だったコルネッティストのジョウ・キング・オリヴァーが作曲したもので、’28年の作品である。