[Wave (Vou Te Contar)]Wave (Vou Te Contar)

Antonio Carlos Jobim 《Wave》 A&M AMP-4012

【解説】粋で暖かい雰囲気

 アントニオ・カルロス・ジョビンの書いたボサノヴァ曲で、彼の数かずの有名なボサノヴァ曲のなかでは比較的新しく、アメリカで録音され’67年に発売された。そして大抵はポルトガル語の詩に対して誰かアメリカの作詞家が英語の詩をつけるのが慣例だが、これは彼自身が英語の詩をつけている。このレコードは彼の経歴の中でもっとも売れた盤となった。トロンボーンがアービー・グリーン Urbie Green、ジミー・クリーヴランド Jimmy Cleveland、フルート、ピッコロにジェロウム・リチャードソン Jerome Richardson、ベースにロン・カーター Ron Carter、アレンジにクラウス・オガーマン Claus Ogerman などが入ったそうそうたるメンバーの録音で、最初はA&M傘下のクリード・テイラー Creed Taylor のCTIレイベルから出されている。テイラーは編曲にドン・セベスキー Don Sebesky を押したが、ジョビンはオウジャーマンを選んだという。テイラーはヴァーヴ/MGMをやめたばかりで自分のCTIレイベルを興し、まず最初にジョビンと契約し、このレコードの企画制作となった。この盤[Wave]は、驚くべきことに、USジャズアルバム・チャートで5位まで上がった。

 ジョビンはこのなかでピアノ、ギター、歌、ハープスィコード、ハーモニカなどをやっていて、才能豊なところを見せているが、彼自身は演奏者よりは作曲家だと自分を見ていた。彼は’50年代にアメリカに来ていて、ジェリー・マリガン Gerry Mulligan、チェット・ベイカー Chet Baker、バーニィ・ケッセル Barney Kesselなど、多くのウェスト・コウスト West Coast ジャズの影響を強く受けている。また彼自身はドビュッスィ Claude Debussy やラヴェル Maurice Ravel などフランス印象派の和声に決定的な影響を受けたと語っている。また彼と同郷人であるヴィラ・ロボス Heitor Villa-Lobos の影響も見られる。彼のピアノはメロディックで単純な動きを好み、クロード・ソーンヒル Claude Thornhill のタッチを彷彿とさせる、という指摘もあった。彼が曲を作るときは、和音を先に決めて研ぎすましていき、それからメロディを発展させ、最後に歌詞を磨き上げるのだという。そこで初めて記譜して完成させるのだそうだ。面白いことに、まるで普通の人と違う、反対の順序のように見える。

 このCTI盤がでることになったきっかけは、もともと彼は録音に来たのではなく、彼の曲が正しく録音されているかを見届けるためにアメリカに来たのだと、作詞家のノーマン・ギンベル Norman Gimbel にジョビンは語っている。「曲の最初の録音は、そこから曲が育っていく種になるので、とくに重要だと思う。僕はここに種を撒きに来たのさ」と話した。シナトラがジョビンと吹き込んだ Francis Albert Sinatra & Antonio Carlos Jobim (’67)も同年に出て、この曲は’70年代後半ぐらいからボサノヴァとしてまたときにはジャズの一部としてとしてスタンダード化してきた。サラ・ヴォーンが来日の折、スロー・バラードとして歌っていたこともある。ただし歌としては、ブリッジで音域が下がるのが難しいし、全体では旋律が1オクターヴと6度という広い音域にわたるので、声域が広くないと歌えない。ブリッジで低音域に下がるのに私などは違和感を覚えてしまうが、曲としては全体に粋だし、なんと言っても、この歌詞の暖かい雰囲気が人を惹きつけて放さない。なおこの英詩はジョビン自身によるもので、彼の曲で英詩がついているものは意外と少ない。誰かが彼の曲に英詩をつけてもってくることがあっても、彼はほとんど気に入らず、それを受け入れることは少なかった。オウジャーマンは、彼の曲に英詩がもっとつけられていたらもっと売れていたろうに、と悔やむ言葉を残している。

 アントニオ・カルロス・ジョビン(’27-’94)はリオの近郊チジューカ Tijuca に生れた。父は外交官で大学の教授でもあり、家系はもともとポルトガルの皇帝ドン・ペドロ2世の侍医だったという。一家は私立小学校を経営していて、彼もそこで勉強した。アントニオがまだ子供のころ両親が離婚し、しかも彼が8歳のときに父が亡くなったので、母は子供とともにイパネマに移った。そこは海のそばだったが森の緑が濃く、よく彼は森のなかに入って鳥たちの鳴き声に聴きいった。「僕は自分の作るメロディをブラジルの森の鳥たちから学んだんだと思う」とのちに彼は言っている。小さいとき彼と妹がアントニオという名前をうまく発音できず、それでトム Tom またはトム・ジョビン Tom Jobim という名で呼ばれるようになった。

 母が再婚し、その義理の父は建築家になるつもりでいた彼を励ましてくれた。最初は母が借りてくれたピアノで練習していたが、音楽的にはクラシック・ギターを弾く叔父が二人いて、彼らの影響を強く受けてギターにも親しんだ。さらに義理の父がピアノを買ってくれ、ほとんど独習したが、14歳で彼は正式にレッスンを受け始めた。そのころピアノのチューニング用レヴァーを買って、調律したり反対に調律を外してピアノの原理を勉強したりもした。それでも彼は音楽を振り払って建築家になろうとし、専門学校で建築の勉強をしたが、一年としてもたなかった。20歳を過ぎるころとうとう音楽の魅力に勝てなくなり、ナイトクラブでピアノを弾き始め、録音スタジオで編曲の仕事もし始めた。アメリカのビッグバンド・サウンドに影響を受け、トミー・ドースィ Tommy Dorsey、デューク・エリントン Duke Ellington、カウント・ベイスィ Count Basie、ウディ・ハーマン Woody Herman などをよく聴いた。

 ’54年に歌手の伴奏で録音したのが、彼の最初のレコードだった。同年、オクスフォード大学で教育を受けた詩人で外交官のヴィニスィウス・ジ・モラエス Vinícius de Moraes と知りあい、2年後にモラエスに戯曲【カルナヴァルのオルフェ】(のちに映画『黒いオルフェ』になる)のスコアを書かないかと誘われて、そのなかに[Felicidade]など3曲ほど書いた。ニュートン・メンドンサ Newton Mendonça は幼なじみのピアニストで、一緒に曲を書くようになり、[Samba de Uma Nota Só]、[Meditação]、[Desafinado]を書いている。アロイジオ・ヂ・オリヴェイラ Aloysio de Oliveira とは[Dindi]を書いた。

 ’58年にはまだ無名のジョアン・ジルベルト João Gilberto がジョビンの曲を吹きこみ、ボサノヴァ運動のようなものがうねり始めた。[Chega de Saudade]と裏面[Desafinado]で、これはまさにボサノヴァの波の端緒となった。ブラジルの外での突破口は、’62年にスタン・ゲッツ Stan Getz とチャーリー・バード Charlie Byrd が[Desafinado]をヒットさせたことから始まった。その年後半にカーネギーホールに彼やほかのブラジル・ミュージシャンが招待されてボサノヴァ・コンサートを催し、一気にボサノヴァは世界的なうねりになっていった。それは’60年代遅くまで続いたうねりだった。ボサノヴァはサンバと本質的には変わらないが、もう少し簡明に単純化し感覚的になり、テンポも全体にややゆっくりになり、一般には’都会化したもの’と言われた。サンバはあまりにも土俗的でアフリカ性を強く残していて、共同体の内部の者にだけに向けた(極端な言い方をすれば)外部の者を排除するような、そういう性質をもっていたが、ボサノヴァ化によって都会のあるいは世界の音楽になっていったと解釈できそうだ。

 ’62年にジョビンはジルベルトとフルートのハービー・マン Herbie Mann とのレコードで、[One-Note Samba]を歌った。Getz/Byrd の『Jazz Samba』(’62)、『Getz/Gilberto』(’63、グラミー賞を取った)、『Getz/Gilberto Vol.2』(’64)、Getz/Luiz Bonfá の『Jazz Samba Encore!』(’64)などどれも彼の曲がたくさん散りばめられている。彼は演奏旅行よりもスタジオで録音するほうが好きだった。それからビズィネスが苦手なところがあり、著作権などきちんと手を回さずに済ませたりして、入るべき著作権料を取れずに失ってしまったりすることが何度かあったようだ。

 クラウス・オウジャーマンとのレコードから始まったアメリカでのボサノヴァ熱は’60年代後半から急速にさめていく。セルジオ・メンデス Sergio Mendes とブラジル Brasil ’66 は以後もヒットを続けていくが、それはボサノヴァとしてではなくロック化した(当時ボサロックなどという言い方もした)だけのことで、ボサノヴァの優雅さ面白さののようなものは急速に過去のものになっていった。ブラジルの軍事政権がボサノヴァに対立的だったこともその一因だったろう。ボサノヴァ・ブームが過ぎ去ると、彼は映画やTVの音楽製作にしばらく専念していた。しかし’85年あたりからボサノヴァ復興の波が起きてきて、二番目の夫人アナ・ロントラ Ana Lontra と息子パウロ Paulo、娘エリザベス Elizabethらと親しい仲間も入れて、再び演奏旅行を開始した。’93年ブラジル、’94年カーネギーホールでのコンサートでジョビンは世界的な賛辞をあびて、レコードやコンサートが重なった。’88年にニューヨークに居を移して以来、やっと本格的な演奏活動に入れるかと思った矢先だったが、マンハタンの病院で膀胱腫瘍除去の手術を受け、手術中に心臓発作で突然亡くなった。その後もどのジャズ・コンサートにも彼の曲が一つ二つは入っているほど、彼の遺産は大きく世界に浸透していたのに、とても残念なことだった。

【補遺】基本的な寂しさ

 この曲もなにか不思議と訳しにくい。fundamental はそのまま〈基本的〉と訳すべきかもしれないが、こういう語は日本語ではやたらと固くなって色気もなくなり歌の雰囲気をぶちこわしてしまうので、ほとほと困ってしまう。そこには、少しユーモアもこめてあえてこんな語を使っているという意味合いもあるのだが、やはり〈基本的〉と書くとなにかユーモアも吹っとんでしまうように感じられる。がそれでもやはり〈基本的な寂しさ〉と書くべきかもしれない。これは原詩でよく味わってほしい部分である。〈波〉とは、君と僕が結ばれる運命にあって、その運命という波がもうこちらに押し寄せてきている、あとはその波を逃さぬように掴まえるだけだ、という趣旨の波である。

 男にとってはこういうふうに優しく女性を口説くことができれば最高なんだが、ことはなかなかそうは運ばない。〝僕を愛することを恐れちゃいかん〞なんて言うには、結局のところ絶大なる自信に裏付けられていなければならないこと、自分が自分にそれだけの評価を与えられること、しかもその評価は自分の独断や偏見ではなく充分に客観的なものでなくてはいけないということ、などと考えていくと、いやいやこれは大変、大変!

【参考】原詞(ポルトガル語)と日本語訳